ブックタイトルYs_後援会2020-電子書籍

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47法政大学の歴史・草創期の功労者歴史草創期の功労者 法政大学の歴史は、1880(明治13)年4月に設立された「東京法学社」に始まります。この年は、わが国憲政史上に重要な地位を占める国会期成同盟が結成され、国会開設上願書が太政官に提出されるなど、自由民権運動の全国的な高揚期に当たっていました。法制史上でも、代言人(現在の弁護士にあたる)規則の改正や刑法・治罪法の公布など、近代的法制の整備が緒につきはじめた年でした。東京法学社は、このような時代背景の中で、にわかに高まりはじめた代言業務と法学教育の必要に応えるため、金丸鉄、伊藤修、薩?正邦らの若い法律家によって、東京神田・駿河台北甲賀町に設立されました。 金丸鉄は1852(嘉永5)年、豊後国杵築藩士の子として生まれ、19歳で上京。独力で出版社時習社を興し、日本最初の法律専門誌『法律雑誌』を創刊した人物です。伊藤修は1855(安政2)年、金丸と同じく豊後国杵築藩士の子として生まれ、1877(明治10)年、代言人免許を得て訴訟業務に従事。また薩?正邦は、1856(安政3)年、京都の石門心学の家に生まれ、上京。法律を独学中、ボアソナード博士の知遇を得て司法省雇、民法編纂局兼務時に直接指導を受けました。■東京法学社の設立者たち薩さった? 正まさくに邦(1856?1897)金かなまる丸 鉄まがね(1852?1909)伊い藤とう 修おさむ(1855?1920)■G.E.ボアソナード博士(1825?1910) フランス・ヴァンセンヌ市生まれ。パリ大学を卒業し、博士号を取得した後、1873(明治6)年、政府の法律顧問としてわが国に招かれ、太政官、司法省、外務省などの顧問として、20年間にわたり刑法典、治罪法典、民法典などの法典編纂や、司法省法学校の教授、政府の外交政策への助言などに尽力した人物です。 1883(明治16)年9月、本学の前身である東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の教頭に就任した博士は、以後最終帰国まで10年以上にわたり、無報酬で門弟の教育に情熱を注ぎ、本学の基礎固めに精魂を傾けました。 東京法学校は校長を置かず、主幹・薩?正邦が経営していたので、実質的に本学は「ボアソナードの法学校」であったといわれています。ボアソナードにより培われたフランス自然法的な近代法の基本理念は、本学の「自由と進歩」の学風をつくりあげる基盤となりました。 2000(平成12)年3月に竣工した「ボアソナード・タワー」は、本学草創期に大きな功績を残されたボアソナード博士にちなんで命名されました。■梅 謙次郎博士(1860?1910) 1903(明治36)年、専門学校令の公布に伴い、本学は財団法人和仏法律学校法政大学と校名を改めます。この時、大学部、専門部、高等研究科および予科が設置され、総理(現在の総長)に就任したのが、梅謙次郎博士です。 「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」と称された博士は1860(万延元)年、出雲松平侯の侍医の子として生まれました。東京外国語学校仏語科および司法省法学校を首席で卒業。フランス留学では、リヨン大学から法学博士の学位を授与、さらにリヨン市からヴェルメイユ賞碑が贈られ、論文「和解論」は市費出版されるという名誉も受けました。 1890(明治23)年、ドイツ留学から帰国後、和仏法律学校の学監に就任。以来、51歳で急逝するまでの20年余、帝国大学教授、法制局長官、文部省総務長官などの要職を次々と歴任する多忙な中、本学の運営に身を挺されました。学生の試験答案にいちいち目を通したばかりでなく、学生の就職にまで奔走しました。 文部省総務長官の時、ドアに「面会日火曜日」と書いてあるその脇に「但し法政大学並びに校友会員はこの限りにあらず」とあり、さらに本学在任中、給与などは一切受け取らなかったといいます。校長、総理時代、本学の諸事業には必ず梅博士の姿が見られました。